進歩するために

2012年3月30日

今回も、ある本から引用いたします。

 

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

五感に視える(みえる)世界は心の姿の反映でありますから、

「悪」が存在する如き五官の証明に依って(よって)、

神は善であり愛であると云ふ信仰を捨ててはなりません。

みえると云ふことと「真実にある」と言ふことは別なのです。

外形に依って判断すれば、人生は屡々(しばしば)悪しきものが充満し、

災禍や、疫病が充ち満ちてゐるやうに思はれます。

併し(しかし)、[中略]、真実の人生は決して悪ではないと云ふことが判るのです。

そして却って人間自身の心が彼の悩みの原因であると云ふことが判るのです。

何故人間自身が彼自身の悩みを造ったのでありませうか。

それは彼に與え(あたえ)られた自由から、そしてその自由意志によって、

智慧の樹の実を食べたからです。

[中略]

かくて、神が人類に與へた「自由」を、人類は、最初の行使方法に於いて失敗したのです。

しかし、それは「悪」と云ふよりも、人類がまだ幼稚で発達の途上にあったと言へるでせう。

[中略]

吾々はみづから試みて苦しみを得たとき、その苦しみの原因を見出し、

みづから其の欲望や、想念や、感情を正しき方向に導いて、

みづからの自由によって不調和を改めて調和を実現せんと欲するのです。

[中略]

かくてこそ嘗て(かつて)は最も低き意欲を満足せしめた所の人もやがて最も高き意欲を持つことが出来るのであり、

誤って戦争に協力した人も、平和に対して偉大なる協力をささげることが出来るのです。

そして最も大なる罪人も最も大なる聖者となることが出来るのです。

昔から「悪に強き者は善にも強し」と言はれてゐます。

一度罪を犯したからと云って、善を為す自由を奪ってはならないし、

また善を為す志向を捨ててはならないのです。

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

 

自分はこうこうこういう人間だ、と決めてかかる人の多いこと。

それがマイナス評価である場合の、なんと多いこと。

うぬぼれは困ります、もちろん。

うぬぼれ者は、自分は完璧でこれ以上努力の必要なしと思っています。

それはうそだ。

けれども、自分自身へのマイナス評価で凝り固まって、

そういう自分は変えられないと思い込む頑固も非常に困る。

 

うぬぼれに進歩なし。

頑固にも進歩なし。

 

人生とは○○である。

この、○○の中にどんな定義を入れるかによって、その人の一生は決まります。

 

上記の引用文を読み、自分自身に対する見方、そして、人生の定義について、

今一度考えていただければ幸いです。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。

どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのか、
月に1、2回のペースで書いていきたいと思います。

端的に言えば、「人間の本質は善である」ということ、
そして、「自分を愛してこそ、人を愛せる」、「国を愛してこそ、自分を愛せる」
ということが根底にあります。

また、どんな人生にも意味と目的があるということも伝えたいと思っています。


平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

分岐点だらけ

2012年2月2日

私が二度目の読み返しをしている本の中から引用します。

じっくり味わって読んでいただきたいと思います。

 

・・・-・・・-・・・-・・・

 

運命が外から課せられた宣告であると観じて、それが真理であるならば人間は奴隷である。

併し(しかし)個人の経験の原因は環境の中にあるのではなく、個人の心の内にあるのだと言うことが自覚され始めたとき、人間は奴隷状態から解放され、自由人となり民主主義的生活を実際に行い得るのである。

自由の世界と云うものも決して法則がないのではない。

法則がなくて滅多矢鱈に各人が動き出したら、交通規則のない繁華街のように交通事故で衝突や負傷や色々の不幸が起るのである。

すると結論は必然的に法則が存在し、その法則に則って各人が生活するとき個人は自己の生活を欲するがままのものに正確に決定することが出来ると云うことになるのである。

即ち、法則は各人を縛るものではなく法則は「道」である。

自動車道も、人力車道も、その他いろいろの道があるが、そのうちどの道を選ぶかと云うことによって、諸君の身に降懸って(ふりかかって)来るすべての運命は決定する。

だから法則は決して我らに宿命を課するのではない。

あなたの運命の原因は貴方の内にあるのだと云うことが出来るのである。

 

・・・-・・・-・・・-・・・

 

人力車が登場したりして、かなり前に書かれたものだということがおわかりになるでしょう。

 

しかしながら、真理は常に新しいのであります。

人間が生きるべき正しい道は、昔も今も等しく用意されているのです。

 

上の文章は、私が解説するまでもありません。

運命とは何か。自由とは何か。

はきちがえている人が、世の中多いと思いませんか。

 

ひとつだけ付け加えておきたいと思います。

どの道を選ぶかによって運命が決定する…もし、過去を振り返ってみて、「ああ、あのときの選択はまちがっていたな。それで今こんなふうになってしまっているのだな」と思ったら、

 

 

 

あきらめないでください。

人生においては、いつだって逆転ホームランが打てます。

 

 

 

分岐点で、A道とB道の選択肢があり、A道を選んでしまった。それはまちがいだった。

そういうとき、もうこのまま進むしかないのでしょうか。

そんなことはありません。

分岐点はその後も次々と現れます。

いくらでも挽回できるのです。

 

人は大きな分岐点ではそれと気づきますが、小さな分岐点には気づきません。

 

実は、人生は、瞬時瞬時が、小さくて大きな分岐点なのです。

 

外を歩いていて、向こうの信号が青になった。これから渡ろうとしている横断歩道だ。

そういう場合、どうしますか。

 

あるときは、その青で渡ろうとして小走りになる。

またあるときは、次の青まで待とうと決め、のんびり歩く。

 

これも瞬時に現れた分岐点とその選択です。

 

小走りで渡ったがために、歩道に突っ込んできた車にひかれずに済んだ、ということがあるかもしれない。

次の青まで待ったために、信号無視の車にはねられずに済んだ、ということもあるでしょう。

 

その場ではここまで大きな結果は出なくても、人はいつも分岐点を通って生きているのです。

 

一度や二度まちがった選択をしたからと言って、あきらめる必要はないのです。

 

では、どうやったら、正しい選択ができるようになるのでしょう。

それは、無意識のうちに分岐点で選択をしているのは自分の “ 心 ” であると知ることです。

心の奥深い部分が、瞬時の選択をし続けているのです。

「ふと」こうしようと思うというのは、その表れです。

 

自己卑下や自己処罰の感情がある場合、心は自分を不幸にする選択をします。

そうやって、望みどおりに不幸へと進んでいく。

まさかと思うでしょうが、望んで不幸になっていく人がいるのです。

 

心のしくみを理解すれば、運命は甘んじて受けるものではないとわかるはずです。

やはり、

「あなたの運命の原因は貴方の内にあるのだと云うことが出来るのである」

なのです。

 

常々心を磨いていれば、よい選択ができるようになります。

清い心。

厳しさと大らかさと温かさを兼ね備えた心。

そういう心のありようを目指したいものです。

 

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平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

努力の質と方向性

2012年1月6日

想念、つまり思いは実現します。
とはいえ、思えばいいというものではありません。
希望することを強く思い、あとは寝ていればかなうなどということはありません。

「果報は寝て待て」は、あせるな、気持ちを楽に持て、という意味だと思います。
本当に寝ているだけでいいというものではないはずです。

希望には質があり、努力には方向性があります。
希望の質というのは、それがよいものかどうかということ。
利己的でないか、他人の権利を奪うものではないか、他人を不幸に陥れるものではないか。
つまり、自分にとっていいことで、さらに人様にとってもいいことであれば、それはよい希望ということになります。

よい希望であると言えるなら、それは堂々と望んでいいのです。
豊かであること、幸せであることに遠慮はいりません。
豊かであれば、それを人に回すことができます。
幸せであれば、気持ちに余裕が生まれ、人を助けることもできます。
清く正しく慎ましくは、一見いいようであって、そうでもない。
人に及ぼすものが少ないから。
完全な自給自足もしかり。単なる自己完結は、人とのつながりを絶つことになります。

質のよい希望を持ったら、それに努力を添えましょう。
そのとき、大切なのは次のようなことです。

悲壮感を漂わせないこと。
できないかもしれないという不安を持ち続けないこと。

以前どこかでご紹介したことがあるかもしれませんが、私がよく心の中で唱える文があります。

「できると信じて、明るい気持ちで努力せよ」

この姿勢に、悲壮感はありません。不安もありません。

悲壮感いっぱいの努力は、たいてい自分を酷使します。その姿は、はたからは「なんてえらい人」と思ってもらえるかもしれませんが、長くは続きません。
ぶっ倒れるのがオチです。
のんびり続けていれば十年継続できたかもしれないことを、悲壮感たっぷりなために精神的に参ってしまい、三年で断念することになったらどうでしょう。

不安を持ち続けるということは、たとえば、せっかく土を耕して種まきしたのに、翌日心配になって掘り起こしてみる。大丈夫とわかったのでまた土をかける。ところがその翌日、また心配になって掘ってみる。
この繰り返しと同じこと。
これでは、芽が出るはずがないのです。

「人間は神性を宿して生まれる」ということを前回の記事に書きました。
それをいかに磨き出すかが大切だということも。
努力とは、そのためのものなのです。
成すべきことが小さくても大きくても、その真の目的はただひとつ。
神性を磨き出すこと。これに尽きるのです。

だから、こんなことがなんの役に立つのだろうと思われるようなことにも、全力を尽くして取り組むべきなのです。
日本人が、修行としてお手洗い掃除をするのも、こういう意味を潜在的に知っているからだと思います。

努力ということに戻れば、ゴールの見えない努力を続けなければならないとき、そういうときこそが正念場です。
これをすればここまで行ける、とわかっている努力はまだ続けやすいものですが、ゴールすらどこにあるのかわからないとき、不安になるなといっても難しい。

けれども、そういう努力が、神性研磨のための大切な過程であるとわかれば、不安も打ち消すことができるはず。
磨いた先は、いい結果が待っているに決まっているのです。

努力の方向性は、不安方向ではなく、明るい信念方向であるべきです。

太陽に向かって歩けばエネルギーをもらえます。背を向けて歩けば、見えるのは自分の影ばかりです。

楽しいのは、どっち?

 

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平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

マイ・ダイヤモンド研磨法

2012年1月5日

常時、何冊もの本を平行して読んでいます。
今読んでいるうちの一冊、どの行にも叡智があふれています。
少し前に読み終えましたが、また1ページ目から読み返しているのです。

その中に、聖書の有名な言葉「狭き門より入れ(いれ)」という表題の項がありました。
抜粋します。(改行は私の判断によるもの。)


*****

(前略)五官の快楽の誘惑にのらないということは決して、現世的な幸福を捨て、(中略)灰色の生活を送れということではないのである。

五官の快楽を餌にして誘惑される門は広くして入り易いように見えるけれども、結局は断崖より墜落して楽園から追放せられるところの「滅びに至る門」である。

内部神性の導くところの門は、窄く見え、一見窮屈に見えるけれども、その門の中はひろびろとして其処には平和と健康と幸福に満たされた楽園があるのである。

自己の快楽をねがわず、人のために愛他行(あいたぎょう)をつくしているとき、魂の法悦が得られるのは無論のこと、その法悦から来る無上の平和の心境がやがてその事業にも健康にも反映して楽園のような具体的生活を実演し得るようになるのである。

すべて人間の幸福と不幸とは、自分自身が「内部神性」の導きに従っているか、従っていないかによって定まるのである。

*****


人は白紙の状態で生まれるのではない、というのが私の持論です。

こういう子供がいます。
親はちっともそういう人間ではないのに、その子は小さいうちから他人に対して思いやりがある。
親から教わっていないのに、他人に分け与える気持ちを持っている。

白紙で生まれたのなら、こういうことは起き得ません。
掃き溜めの家にも鶴は生まれる。

そういう子は、その美しいものをすでに自分の中に持って生まれてきたのです。
その美しい心が、「内部神性」の一面です。

もちろん、掃き溜めを形成している親たちも、実は内部神性を持っています。
ダイヤモンドで言えば、親たちは原石もいいところで、子供の方が多少磨きがかかった状態で生まれてきたということです。

自分がどの程度の磨き段階からこの人生をスタートさせているか、そのことを気にする必要はありません。
大事なことは、磨いて磨いて磨いていくこと。

内部神性とは、自分の奥に宿るダイヤモンド。
それがあると知らなければ、磨き方がわかりません。
また、知らずに偶然磨いていたとしても、その速度は緩慢でしょう。

自分の奥に内部神性が宿っていると知れば、それを磨き出す方法は自ずとわかってくるのです。


内部神性に従う。
狭き門から入る。


これが、最短最善の「マイ・ダイヤモンド研磨法」です。

 

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「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。

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平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

自分の口から出る言葉

2011年12月28日

このブログを読んでくださっている方々は、たぶん、日頃日本語を話していらっしゃることでしょう。

学校では、国語という教科があったはずです。お好きでしたか、嫌いでしたか。

 

昔、京都の街中で、4、5歳ぐらいの女の子が、

「◯◯してはる」

と、京都弁でしゃべっているのを耳にし、

「おお、こんな小さな子でも京都弁を駆使している」

と、驚いたことがあります。妙に感心しました。

 

同様に、英語圏の国に行けば、子供も英語を話しているわけで。

それに対して、自分は話せない、と引け目を感じたりしてはいませんか。

 

早期からの英語教育が大切と言われ、小学校から教えるようになりました。

私は、そのことについては特に反対はいたしません。

ただ、先にもっと力を入れるべきことがあるはずなのに、それが考慮されていなことを深く憂えるものであります。

先に力を入れるべきこと、それは、美しき日本語の習得です。

 

細かく書けばたくさんあります。

それをここに全て書き連ねていると、小論文になってしまうのでやめておきます。

(小論文にするなら、もっとしっかり文章の構成を考えてから書かないと。)

 

さて、まずは敬語の使い方に関して。

 

仕事柄、よく営業の電話がかかってきます。

先日は、若い男性がこのようにおっしゃいました。

「原先生は、お見えですか」

 

電話口で、ですよ。

「見えられますか」よりはましだ。でも。

 

そうそう、しばらく前にはこんなセリフの方。

「原代表って、お手すきですか」

 

これって、ヘンじゃね?

 

某有名ビール会社の、某有名ビールのCM。

男優のナニガシが、年若い客人ひとりを迎え、料理を作り、いざビールを、というシーンでこう言う。

「さあ、召し上がろう」

 

私、頭がクラクラしましたよ。

即刻、そのビール会社のHPにある問い合わせフォームを使い、「このCMを作った方々、それを許可した方々の日本語に対する見識を問いたい」旨、書いて送信しました。

 

速やかに返事が。造語だとのこと。そして、その造語の意図を解説してありました。

納得できません。造語でも、許される範囲とそうでない範囲があると、私は思う。

 

召し上がるは、食べるの尊敬語なのです。

 

あ、その前に。(ややこしい。)

去年だったかおととしだったか、敬語の分類が変更になったこと、ご存知ですか。

私は新しい分類を覚える気がありません。

敬語の種類には、尊敬語、謙譲語、丁寧語がある。そう覚え、敬語を大切にして生きてきました。

分類をいじって変えることで、何になるというのでしょう。

国民の敬語に対する意識が変わりますか。

敬語を使いこなせるようになりますか。

 

分類をいじってそれでよしとするのは、識者の机上の満足に過ぎない。

何の得もないどころか、私のように、正しい敬語を使うことが大事だと思っている者からすると、弊害ですらある。

分類を覚え直すという無駄な労力を必要とするから。

 

よって、私がここで書く内容は、おそらく旧分類に依ります。

 

さて、話戻して。

召し上がるは、食べるの尊敬語。

そして、さらに発展して申しますと、召し上がられるは、おかしい。

言うの尊敬語がおっしゃるで、おっしゃられるがおかしいのと同様。

 

最近、驚くほどの頻度で使われる言葉に、「いただく」がある。

ごはんをいただく、ケーキをいただく。

どうやら、みなさん、いただくは食べるの丁寧語だと思っていらっしゃるよう。

(そのルーツとして、私が密かに特定しているテレビ番組あり。それはさておき。)

 

いえ、実は、丁寧語かどうかなどとも考えず、食べるを自動的にいただくに変換して使っているのです。

 

いただくは、謙譲語です。

 

では、飲むの謙譲語は何だかおわかりになりますか。

これも、いただくです。

でも、なぜかみなさん、コーラをいただくとは言わない。

 

この矛盾、おわかりになりますでしょうか。

 

いただくが食べるの丁寧語だと思っているものだから、こんなことを言う人が出る。

「どうぞ、ごはんをいただいてください」

「うちの店のケーキは甘さ控えめなので、2個ぐらいは軽くいただけます」

 

これらがまちがっていると、おわかりになりますか。

 

 

 

次。れる、られるについて。

 

召し上がるが食べるの尊敬語だと申しました。

でも、これを、食べられると言う人が増えています。

ある動詞を尊敬語にするには、とにかく「られる」を付ければいいと、これまた思い込んでいるよう。

 

「テニスをやられるんですか」

「お酒、飲まれるんですか」

「どうされましたか」

 

これらは、文法的にはまちがってはいない。

けれども、感覚的におかしいのです。

 

そう。この、感覚というもの。

これこそが、敬語を使う上で必要だと私は思うのです。

どういうときに、どういう敬語が適切であるか。

 

この感覚はどうやったら磨かれるか。

それは、小さい頃から有無を言わさず使うように仕向けること。これに尽きると私は考えます。

英語教育が早いうちから必要だと言うならば、それより前に、母国語の中の非常に大切な分野、敬語を習得させるべきです。

 

学校で先生にタメ口きくことを許すから、敬語を肌で覚える機会がなくなっている。

私はそう考えています。

心があれば、言葉に現れる。その逆も真なり。敬語を使うことで、敬う心も育つのです。

学校の先生は、友だちではない。

 

られるに戻ります。動詞を尊敬語にするには「られる」を付ければいいと信じている方々は、可能を「れる」に統一します。

つまり、「られる」は尊敬、「れる」が可能。こう、単純化してしまっているわけです。

 

食べるの可能は、食べれる。尊敬は、食べられる。

見るの可能は、見れる。来るの尊敬が、見えられる。

 

本当に、本当に、ヘンだ。

 

最近のヒット。

とあるセミナーの案内が往復はがきで来まして、返信用の面にこうあった。

「何か、講師に聞かれたいことはありますか」

 

そうそう。もう25年近くも前になりますが、ある作家さんの本を読みましたところ、「見れる」「食べれる」と、ラ抜き言葉のオンパレードでした。

私は呆れ、編集部気付で手紙を書きました。

それに対し、編集者の方からお返事のはがきが届いたのですが、そこには、「日本語は、時代とともに変化していくものである」という趣旨のことが書いてあったのです。

日本語をメシのタネにしている方がこういう意識であるのかと、私はたいそう嘆かわしく思いました。

 

そうだ。ここでまた大きく話はそれます。

今、私は「たいそう」という副詞を使いました。

この、動詞を強調する副詞には、数多くの種類があります。

思いつくままに挙げてみますと、とても、非常に、たいそう、いたく。場合によっては、深く、心底なども使います。

それを、最近、「すっごく」「すんごい」などの言葉で済ます傾向があります。

 

「れる」と「られる」の使い方の単純化。

いくつもある副詞を「すっごく」のみとする単純化。

 

言葉に対する能力が、どんどん退化している証ではないでしょうか。

 

言葉が時代とともに変化することは、私も承知しております。

だからこそ、古文の教科書にある「をかし」など、その意味が現代とは違うわけです。

 

それでも、安易に変化していくことを見過ごしてよいはずはないと、思いませんか。

 

 

 

「かな」も、最近使い方がおかしくなった言葉のひとつです。

 

広辞苑を引きますと、「かな」についてこうあります。

― 疑問の助詞「か」に詠嘆の助詞「な」の付いた語。

 

これは、テレビの報道番組で見たシーンです。

幼児が誘拐され、遺体となって発見されました。

その親御さんが、会見でこう言いました。

「早く犯人が捕まるといいかな、と思います」

 

こんな場面も。

ある問題を起こした会社の中年男性社員が、インタビューで言いました。

「この問題に関しては、見解の相違かなと思います」

 

力が抜けます、私。

 

そうです。今や、むちゃくちゃな敬語も、ラ抜き言葉も、「かな」の不適切な使用も、全て、年齢に関係なく行われていることなのです。

 

ということはどういうことか。

 

頭が柔らかい年齢から、正しい日本語、美しい日本語を有無を言わさず脳に入れることが大切であると同時に、たとえいくつになっても、自分がどういう言葉を使っているか、常に意識すべきであるということです。

そうでないと、70代のおばあさまのラ抜き、それなりの地位のある方の「~かな」が横行するのです。

 

言霊という考え方があります。その考え方でいくと、どういう言葉が使われるかが、吉兆を左右します。

そのことにはここでは触れませんが(本当は触れたい。)、言葉はそれほどまでに大切であるということです。

 

最後に余談。

ラ抜き言葉は間違いですが、ある地方の方言には、ラ入れ言葉があります。

「あそこに行くと、無料ティッシュをもらうことができる」というのを、標準語で別に言い換えると、「あそこに行くと、無料ティッシュがもらえる」ですね。

これを、某方言では、「無料ティッシュがもらわれる」になるんです。

おもしろいですね。

 

さらに余談。

書き言葉にも、私は危機感を持っています。

このブログ記事もそうですが、文の頭をひとマス開けない書き方が、当たり前になってきている。

これは、日本語では正しくない。そのことを知っていてするのと、知らないのとでは大違い。

 

私も、ブログやメールなどはひとマス開けない書き方をしますが、人様に手紙を出すときは、たとえ横書きであろうとも、きちんとひとマス開けをいたします。

 

本当は当たり前なんですけどね。作文の時間に習っているんだから。

手紙やはがきを書く機会がゼロに近くなっているこの時代、正しく日本語の文章を書けない人も多いのですよね。

 

もう一丁、余談。

営業電話がかかってきて、私が丁重にお断りしますと、相手の方はこう言います。

「了解です」

うーん、傑作です。

 

 

 

ふぅぅ。構成もほとんど考えずに書きました。

愛する日本語への思いが募って。

 

言葉を常に意識するということは、母国語である日本語を大事にすることです。

と同時に、自分の発する言葉が相手の気持ちにどう届くかを意識することでもあると思います。

自分の言葉が、人を傷つけているか、癒しているか。

 

美しい日本語を守っていこうではありませんか。

それは、巡り巡って祖国愛にもつながっているのです。大げさではなく。

 

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「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。

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平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

意地を張る人

2011年11月26日

意地を張る人は、認めてほしいのです。

あることで意地を張ったとしても、それはそのことだけの問題じゃない。
ずっと以前から自分の思いを認めてほしかったのに、認めてもらえずに来た。
だから、目の前のことで意地を張っているのです。

つまり、その人は寂しいのです。

そういう人は頑固と思われがちです。
でも、認めてほしいというサインを発しているときに、それに気づいてもらえなかったために、別のことで意地を張り、自分を主張している。それだけなんです。

まずは、その人の主張を受け止めてあげましょう。
たとえそれが多少理屈からはずれていても。

受け止めるということは、何でも言うことを聞くことではありません。
受け止めるということは、まずはいったん全部包み込むということ。
風呂敷のように。

そうすればその人は安心します。

自分の主張に無理があると、その人は本当は知っているのです。
だから、受け止めてもらえたと感じたら、素直になっていくでしょう。
少しずつではありますが、無理なことを言わなくなるでしょう。

逆に、意地を張りがちな方に申し上げます。
あなたは認めてほしいという気持ちが強い。心が叫ぶほど。

では、お聞きします。
あなた自身は、人のことを十分に認めてあげていますか。
自分が認めてほしいという思いが先に立っていませんか。
ほかの人も、認めてほしいと思っていますよ。

ほしいほしいは地獄を生み、してあげたいしてあげたいは天国を生む。
あなたが天国に住めば、周りはあなたにとてもよくしてくれるはずです。
天国とはそういうところだから。

 

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ということが根底にあります。

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平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

愛は寛容かつ峻厳である

2011年10月29日

先日、妹から電話がありました。「まじめな話。A先生のことで」と。

郷里にいた頃、私はある習い事をしていて、その師A先生とは今でもお付き合いがあります。
といっても、年賀状のやり取りぐらいで、うかがうのは数年に一度です。
かなりご高齢ですが、今も教室を続けていらっしゃいます。
ご主人を亡くしてひとり暮らし。お子さんはふたりいらっしゃいました。

そのA先生の教室に、たまたま妹の友人Bさんが習いに行っているのです。
今回、妹はBさんから頼まれたとのこと。

「東京にいるA先生の娘さんが、A先生とほぼ絶縁状態。A先生が電話しても出ない。
ついては、美紀ちゃん(=私)から娘さんに連絡してみてほしいと、A先生がおっしゃっている」
簡単に書くとこういうことです。

私は妹に、「それはできないと伝えて」と言いました。
「私が間にはいるべきではない」と。
妹にはそれが意外だったようで、
「Bさんは、『助けてあげればいいのに』と思うんじゃないかな」
と言います。

Bさんがどう思うかは、本当はあまり関係ないのですが、背景をよく知らないBさんですからしかたありません。
そもそも、A先生はなぜ、私への頼みごとをBさんと妹経由で言ってきたのでしょう。
妹も、「伝言ゲームになってしまって正確に伝わらないかもしれないのにね」と言っています。

たぶん、A先生はさびしいのだと思います。できるだけ多くの人にかまってもらいたい。
そのお気持ちはわかります。けど。

実は私、A先生の娘さんとは数十年前に一、二回会ったきりです。最後にお会いしたのは、私が高校生の頃か。
その後、話したことも手紙やメールのやり取りをしたこともありません。
数年前のA先生からの年賀状に、「娘が美紀ちゃんに会いたいと言っています」と書いてあり、お会いすることはやぶさかではなかったので、「どうぞ、私の連絡先を娘さんに知らせてください」とは申し上げました。

ところが、その話はなぜか変化していて、A先生はBさんにこうおっしゃったそうです。
「美紀ちゃんは娘と連絡を取りたいと言っていた。引っ越し先を教えるから、美紀ちゃんから電話してほしい」

Bさんは、娘さんと私が何度も会ったことのある関係だと思い込んだ可能性があります。

A先生は、今、お体が少し不自由です。去年お目にかかったとき、そのお姿に驚きました。

ひとり暮らし。ご高齢。お体が不自由。

かわいそう、でしょうか。

だから、電話も取らない娘さんに連絡してあげるべき、でしょうか。

私はそうは思いません。

全くの他人、しかも、娘さんとは数十年前に一、ニ度会ったきり。
そういう私が間にはいることが、はたしてよいことでしょうか。

「美紀ちゃんがカウンセラーだから、というのもあるんじゃないの?」
と、妹は言います。
だとしたら、なおさら介入すべきではありません。
娘さんにとって私は、母親の生徒だった人でしかありません。
その人からいきなりの電話で、「カウンセラーですので」と言われたのでは、娘さんも納得しないでしょう。

もうひとつ、私は気づいているのです。
娘さんが絶縁したくなる理由がA先生にはあると。
また、もうひとりのお子さんが結婚して近くに住んでいながら、そちらに助けを求められないのも、そちらともうまくいっていないからだと知っています。
こういった複雑な問題が生じたのは、A先生にも原因があるということが、残念ながらご本人にはわかっていないのです。

妹には背景を十分説明し、Bさんに伝えてもらう点も挙げ、その日の電話は終わりました。
そして、翌朝改めて妹にメールしたのです。次のような内容です。

「A先生のこと、ひとりぼっちになってしまって、お体も不自由で、おかわいそうだとは思う。
でもね、私はいつも思う。感情で動いてはいけないと。
特に、『かわいそう』で何かしてあげるのは、かえって相手のためにならないことが多い。

どんなにめんどくさいことでも、私がすべきことは絶対にする。
けれども、介入してはいけないこと、あるいは、人が自分で力を出す機会を奪うことは、絶対にしない。

その人が、自分にとって近しい人かどうかは関係なく」

応援することと、甘やかすことは違うのです。

 

愛は寛容。そして、愛は峻厳。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。

どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのか、
月に1、2回のペースで書いていきたいと思います。

端的に言えば、「人間の本質は善である」ということ、
そして、「自分を愛してこそ、人を愛せる」、「国を愛してこそ、自分を愛せる」
ということが根底にあります。

また、どんな人生にも意味と目的があるということも伝えたいと思っています。


平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

トンネルは曲っている

2011年9月30日

人生には、暗闇にいるように感じるときがあるものです。
全く先が見えない。
せめて希望の光でも見えたら、それに向かって歩いていけるのに。

それはたぶん、トンネルの中にいる状態です。
そして、そのトンネルは曲っている。
だから出口の光が見えないのです。

トンネルには絶対に出口があります。
歩いていけば必ず見えてくる。

もしあなたがそういう経験をしたら、ほかの人がトンネルの中にいるとき、
「大丈夫。必ず出口は見えてくるから」
と伝えてあげてください。

ただ、そのとき、全く同じ経験はないということは知っておいてください。

 

T子さんは最初の夫と分かれ、たくましく生きてきました。
今は再婚して幸せです。

T子さんがR子さんという人と知り合いました。
R子さんは夫やその家族との問題で苦しい時期を過ごし、数ヵ月前に離婚したのでした。
それでも苦しさは続いています。

そのR子さんに向かって、T子さんは言いました。
「私も離婚経験者よ。いつまでもクヨクヨしてどうするの。
私なんか、すぐに気持ちを切り替えて仕事してきたわ」

果たしてこれが、T子さんにかけてあげるべき、適切な言葉でしょうか。
離婚という二文字は同じでも、原因や経過はそれぞれ違うはずなのに。

 

似たような経験から語ってあげられることは多くあります。
そのとき大切なことは、相手の気持ちに寄り添うこと。

相手がトンネルの中でしゃがみ込んでしまっていたら、
まずはそこにしゃがんで話しかける。
立ち上がって一緒に歩くのは、そのあとです。

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「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。

どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのか、
月に1、2回のペースで書いていきたいと思います。

端的に言えば、「人間の本質は善である」ということ、
そして、「自分を愛してこそ、人を愛せる」、「国を愛してこそ、自分を愛せる」
ということが根底にあります。

また、どんな人生にも意味と目的があるということも伝えたいと思っています。


平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

やってみるだけ

2011年8月19日

世のため人のために何事かを成すには、
まず自分自身を整え、
自分自身が幸せでなくてはなりません。

自己犠牲が先に立つ考え方は、
必ずほころびを生じます。

また、自分は人の役になど立たないと思うなら、
それは一種のジコチューです。
生きるということを自分のためにだけ使っているわけだから。

 

まずは、自分自身が幸せであるべき。

じゃあ、幸せってなんだろう。

自分がこの世に生まれた意義と使命を知り、
それを具現化するために努力する。
それがひとつひとつ実を結んでいく。
その過程が幸せなのではないでしょうか。

また、人生は楽しいと心から思えること。
そのためには、人とのつながりも大切にし、
自分のやりたいことを言い訳せずにやってみる。

 

先日、テレビ番組「徹子の部屋」に、
96歳の現役報道写真家という女性が出ていらっしゃいました。

そのお姿と話しぶりは、70代としか思えません。
よぼよぼ婆さん、頑固婆さんからは程遠いものでした。

その方に、徹子さんが聞きました。
「今の若い方に何かおっしゃりたいことはありますか」

お答えはこうでした。
「何にでも挑戦してごらんなさい」

さらに彼女は続けます。
「何をしていいかわからない、という若い方に、
絵を描いてみたら? 書を書いてみたら? と勧めると、
『才能がない』という返事が返ってくる。
才能がないかどうか、やってみないとわからないでしょう?」

96歳の写真家は、来年ニューヨークに飛んで写真を撮ると言うのです。
「女に何ができるか」と言われた時代を生きてきたのです。
それでいながら、気負いが全く感じられない。
イキイキとした生命力が、あふれ出る魅力を作っているのでした。

 

私が確信を持って言えることがあります。

ある行動を起こすべきときに、
「◯◯だからできない」と堂々と言い続ける人は、
◯◯がなくなると即座に、
「△△だからできない」と、別の理由を見つけてきます。
そして、またそれを堂々と言い続けます。
さらに、△△の理由が効かなくなると、
「◎◎だから」と言い始めるのです。間髪入れず。

例を挙げてみましょう。

「私は頭が悪いから」
「私は才能がないから」
「私は器量が悪いから」
という理由で自分を生かそうとしない人は、
結婚して子供が生まれると、
「子供がいるから」
と何かにつけて言います。

確かに、子供がいることはいろんな面で制約です。
けれども、それをしょっちゅう言う人と言わない人がいるのです。

さて、子供を常に理由にしていた人は、
子供がある程度大きくなると、何と言い始めるか。

「年だから」

ああ、これはもう決定打。

子供が " ある程度 " 大きくなるという点がまたクセモノで、
下の子が小学生になったら十分手が離れたと思う人もいる中で、
下の子が大学を卒業するまで「子供がいるから」と言うこともできるのです。

余談ながら、そういう人の子供はいつまで経っても親離れしません。
当然ですよね。

 

「年だから」は、いつから有効なのでしょう。
30代で、「自分はもう若くない」と言う人、いますよね。
人生80年のうち50年を、
「若くない」「年だから」と言い暮らすことに費やすつもりなのでしょうか。

 

別の例を挙げましょう。

「突撃 となりの晩ごはん」というヨネスケさんの番組コーナー。
これ、私、好きなんです。
なにせ、普通じゃない家に生まれ育ったので、
普通の家のごはんが見たい。
現在休止中のこのコーナー、早く再開しないかなあ。

さて、ヨネスケさんがあるお宅に突撃しました。
いつものようにズカズカと上がります。

すると、この家の30代とおぼしき小太りの奥さん、
「ああ! 見ないでぇ!」
と叫びつつ、部屋のものを隠し始めました。
けれども、ちょっとやそっとでは隠せないぐらい、散らかっている。

「なんか、雑然としているねえ」
とヨネスケさん。
その言葉に、小太り奥さんは反射的に言いました。
「引っ越してきたばかりなので」
「いつ引っ越してきたの?」
「半年前」
「・・・」

「引っ越してきたばかりなので」を、
この奥さんは片づけない理由として言い続け、半年が経った。

半年もそれを理由にする度胸もすごいと思うけど、
それは、大学生の息子ひとりが家に残っているだけなのに、
「子供がいるから」と言い続けるのと同じこと。

小太り奥さん、
さすがに1年経ったら、もう今の理由は使えないでしょうね。

さて、次は何を理由に?

私には確信があります。
この人は、必ず次の理由を見つけてきて、
それを堂々と主張するであろうと。

みなさん、もうお気づきですよね。

こういうのは理由とは言わない。

言い訳と言うんです。

 

この文章、冒頭からどんどんそれてきたように見えるかもしれません。
私の中ではつながっているんです。

96歳の写真家の言葉をもう一度。

「なんにでも挑戦してごらんなさい」

そうです。言い訳せずに。

できれば再度、この文章の冒頭を読んでみてください。
つながっているのがおわかりいただけると思います。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。

どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのか、
月に1、2回のペースで書いていきたいと思います。

端的に言えば、「人間の本質は善である」ということ、
そして、「自分を愛してこそ、人を愛せる」、「国を愛してこそ、自分を愛せる」
ということが根底にあります。

また、どんな人生にも意味と目的があるということも伝えたいと思っています。


平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

M市のKさんへ

2011年7月30日

ほんのちょっとしかお話しする時間のなかったあなたに、
お伝えしたいことがあって書きます。
あなた以外の方にとっても何かのヒントになるはずなので、
私の時間を使ったことを申し訳ないと思わないでくださいね。

何から書いたらよいのでしょう。
とても長くなると思います。

 

今、あなたは立ち止まっていらっしゃいます。
「自分で考えることができない」とおっしゃいます。
その原因は、体の痛みやつらさからきています。

ただ、このまま相手の出方に任せていていいのでしょうか。
相手は、あなたが根負けするのを待っているのではないでしょうか。

お会いしたときにご提案したように、
あなたは毅然とした態度を取るべきです。

大きな組織は、ときとしてあなたを守ってくれますが、
ときとして壁になって立ちはだかります。
それに圧倒されてしまいそうになる気持ちはわかるのですが、
あなたという人間は、組織よりもはるかに大切な存在だということを
心に留めてください。

組織を笠に着て何か言ってくる人自身も、
組織にとって都合が悪くなったらはじき出されるのです。
組織とはそういうものです。

 

あなたはやさしくてまじめな方。
きっと、周りに配慮し、自分を律して生きてきたのでしょう。
立派な生き方です。

そういうあなたに、さらに必要なことがあります。

自分を持つこと。自分を尊重すること。

 

自分とはなんでしょうか。
この体?
いいえ、違います。
体は自分のものではあるけれど、自分そのものではありません。
体をも牛耳っている、自分の本体。
それが、奥の奥にあるのです。
体は傷ついても、本体は決して傷つくことはないのです。

その本体の上に、ひとりひとりの個性が加わります。

あなたが大事にすべきなのは、本体とあなただけの個性です。

他人を大切にと思うならば、まずは自分を大切にすることです。

 

では、体は大事にしなくてよいのでしょうか。
そんなことはありません。
体は、本体のお宮です。
宇宙遊泳の宇宙服です。

人生という経験を積むために、体は必要なもの。
だから、ほどほどに大切にしてあげるべきなのです。

ほどほどとは。
過保護でもなく、ストイックにいじめ抜くでもなく、ということです。
適度に動かし、適度に栄養を与え、休めてあげる。
楽しみも与えてあげる。
ほどほどに。

今のあなたは体の状態がよくありません。
それは外からの原因によるものなのですが、
ちょっと思い返してみてください。
今まで、体を本当に大切にしてきただろうか、と。
あまり気に留めなかったのではないでしょうか。

「体さん、ごめんなさい。あなたのこと、大好きです。これから大事にするからね」
そう言って、痛いところやつらいところをなでてあげてください。
毎日続けてください。
そのうち、「ごめんなさい」と謝るのは十分だと感じるときがきます。
なんとなく感じます。
そしたら、「あなたのことが大好きです。大事にします」の部分だけを唱え、
なでてあげてください。

今、体が言うことを聞かないせいで、日常生活に制限を受けていると思うなら、
体が言うことを聞かないのではなく、
自分が体を十分に顧みなかったのだと気づいてください。

 

毅然とした態度を取るべきだということは、お会いしたときにもお話ししました。
その方法についてもご提案しました。

あなたがそれを実行し、相手が速やかに誠意ある対応を取るよう願っています。

しかしながら、もし、あなたがそれを実行しても大きな進展がなかったなら、
あなたにとって、その組織を離れる時期なのかもしれません。

もちろん、決めるのはあなたです。
ただ、私には、あなたが他に行くところがないからそこに留まっているように見えるのです。

「私に能力などあるのでしょうか」
と、あなたはおっしゃいました。

能力がないという判断は、どこからくるのでしょう。
学校の成績ですか?
取り立てて目立たなかったという過去からですか?
誰かから、無難に生きていけばまちがいないと言われたのでしょうか?

組織から痛い目にあわされてまでそこに留まる理由が、
「ほかに行くところがない。自分にはできることがない」
という思いであるならば、人生を引き算で生きていることになります。

それは本当にもったいない。
同じ人生を引き算で生きるか、足し算で生きるか。
どちらが楽しいか。
どちらがイキイキしていられるか。
おわかりですね。

でも、今までそんなこと考えたこともなく、足し算すると言ってもどうしたらよいのかわからない。
そうであれば、まずは自分の個性を減点法ではなく、加点法で捉えることです。

小さくて取るに足らないと思うような良い点を、+1点として足していくのです。

人は、+1点は大したことがないと思って捨ててしまいます。
10点20点でないと+とは言えないと思っているようです。

そうやって捨てていくから、
合計すれば+8点ぐらいあるはずのものをゼロだと思い込むのです。

 

個性こそが才能だ、とお話ししましたね。
音楽ホールに響き渡るほどの艶のあるソプラノヴォイスが才能ならば、
目の前にひとりにかける、穏やかで優しい声も、才能ではないですか。
あなたにはそれがあります。
ほら、+1点。
いえ、本当はこれなど、+5点ぐらいだと私は思います。

また、あなたの礼儀正しさも、+5点以上の価値がある。

ほかにもたくさんあるはずで、それらはおそらく見逃されているのです。
あなたによって。

自分の良さは、人に認められることも大事だけど、
まずは自分で認めましょう。
それは、天狗になることとは違うのです。

自分の良さや個性を知り、それを才能だと認め、世のため人のために生かす。
これが足し算の生き方です。

 

こうも申し上げましたね。
人は、今までしてきたことを生かすことばかり考えがちだと。
もしかしたら、全く違う方向に進む道があるかもしれないのに、と。

今までしてきたことがとても好きで、やっていて心からの充実感があるのであれば、
そのままそれを生かせばいい。
もしも、経験があるというただそれだけの理由でその延長線を考えるのであれば、
せっかく岐路に立っていながらチャンスを逃していることになります。

あなたが好きなことはなんですか。
それを生かす方法はないとお考えですか。
経験がない? 仕事になんかなりっこない? 資金がない?
やりようはいくらでもあるはず。
視点を変え、その気になって探せば。

ある人に課せられた責任は、もちろん果たさなければなりません。
養うべき家族がいたら、ちゃんと養う。
継がなくてはいけない家業があるなら、しっかりと継ぐ。
それでもなお、その人が好きなことは絶対にやるべきです。
自分の心を押さえつけないで。

まずは、自分が好きだったことを思い出してみてください。
それにちょっと手をつけてみてください。
すると、
「ああ、この感覚だ。自分が好きだったのは」
と、湧き上がる喜びが感じられるはずです。
そこから何かが見えてくるはずです。

人は、経験や年齢を先に考えます。
それは自分を縛っていくことです。

 

もうひとつ、肝心なことがあります。
もし、組織を離れるべき時期だと思ったなら、
そのときは、感謝をして離れてください。
現在、組織のあなたへのやりようがどうであろうとも。
今まで自分を育ててくれたことに、心からの感謝を。

うらまないでください。
また、もちろん、あなたが卑屈になる必要もありません。

感謝したとき、今までの経験は自分の肥やしになります。
うらんだら、それは自分を傷つけるものとして返ってくるのです。

感謝して、堂々と次のステップへ進むことです。

 

しばらくは期限を切らずに心身を休めてはどうかと申し上げました。
期限を切ると、それが気になってしまって十分に休めません。
期限を設けない方が、ゆっくり休めて早く回復するものです。
さっきの加点法で、自分の良いところを探す期間だと考えてはどうでしょう。

今まで見逃してきた、心の中のダイヤモンド。
1カラットのダイヤだけが美しいのではありません。
1カラット未満のダイヤ、
それを数個散りばめた指輪、きれいですよね。

キラキラ輝いているのに見逃されているダイヤの数々。
それが、あなた自身の良さなのです。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

「静かな樹」は、カウンセリングとヒプノセラピーのサロンです。

どのような考え方に基いてカウンセリングを行っているのか、
月に1、2回のペースで書いていきたいと思います。

端的に言えば、「人間の本質は善である」ということ、
そして、「自分を愛してこそ、人を愛せる」

「国を愛してこそ、自分を愛せる」
ということが根底にあります。

また、どんな人生にも意味と目的があるということも伝えたいと思っています。


平成23年2月3日 (旧暦 1月1日)

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